2011年2月26日土曜日

痛ましい!

先日起きたニュージーランドの地震のニュースには本当に驚きました。
被害の大きかったのがクライストチャーチと聴いて、かつて訪ねた美しい街を思い出したのです。
特にニュースの映像で良く流れる、街のシンボルとも言える大聖堂にはワタシも訪れて教会の塔にも上ったからです。

訪れたのは今を去る事二十年前の、1991年の夏。
友人と海外スキーツアーに参加して、ニュージーランド南島のクイーンズタウンをベースに周辺のスキー場を巡った帰りでした。
オークランドで国際線に乗るまでのローカル航空の乗り継ぎ時間がけっこうあったので、市内観光をしようと思ったのです。
何も下調べをしていなかったので、とりあえず空港から市内へバスで向かい、博物館か美術館らしきところを見学し、その後大聖堂のある広場に行ったのです。

 教会を覗くとちょうどミサの最中でした。
入っていいか訊ねると、ちょうど8/6ヒロシマの犠牲者を追悼するミサでした。
偶然にも、同行していた連れがヒロシマで親族を亡くしていたので、クリスチャンではないが参加させて欲しい、という希望を快諾してくださりワタシもミサに参加させて戴きました。

 その後教会の塔に上って、写真の証明書をもらって帰ったのです。
教会前の広場にはチェスを楽しむ人がいたり、静かな冬の午後でした。

バスの中から見る街は英国風で、学校のグランドには緑の芝生。小学生ぐらいの子供達がラグビーをやってましたっけ・・・。
そんな記憶の中に残る街の惨状が、突然TV画面に映し出されて・・・・。

 建物の倒壊も局所的みたいなのに、たまたまそこに居合わせてしまったと言うのが本当に不運としか言いようがないですね。
加えて伝えられる犠牲者の多くが将来有望な若者たちばかり・・・二重に痛ましい!

合掌!

 今も必死の救出作業が行なわれていると思いますが、なんとか奇跡の生還が在って欲しいものです。

それにしても、一つの命を救う為に懸命の努力がなされている、その地球の反対側の中東や北アフリカではこれまた多くの人が虫けらの様に殺されている事を思うと、人間って本当にどうしようもない生き物だなあ、と思いますね。
そちらの犠牲者にも
合掌!

いろいろ不満はあるけれども、
命にかかわる様な事が何もなく過ぎてゆく日々に、
感謝しなくてはいけないのでしょうね。

2011年2月14日月曜日

お散歩 多摩川

昨日はお天気も良かったので、午後から家人とお散歩に行きました。
前夜夜更かししたから起きたのが遅く、加えて家人の準備に時間がかかって日も傾きかけての出発となりました。
女性はお化粧したり服を選んだり、思い立ってすぐ出られないので大変ですね。
以前はそれでイライラして喧嘩もしましたが、五年も一緒に暮らすと諦めるもんですね。


お散歩のコースはお正月に行った川を下ったところにある、見晴らしの良い公園まで。
幸い風もなく空には雲もなく穏やかな日差しでいい気持ちでした。
公園から降りて来ると川には堰があります。
ワタシが20代の頃、ここにはボート乗り場があったと思います。
その頃、川は汚れていて洗剤の泡が舞っていましたねえ。
今ではかなり奇麗になったみたいです。
最近では初夏になると鮎が堰の魚道を上るのが見られるそうです。

 昔は多摩川では鮎が沢山捕れて、二子玉川でも川岸には料亭が並んでいたそうですね。
この近くの和菓子屋さんでは鯛焼きならぬ鮎焼きを売ってます。
川が奇麗に成って、堰には魚道が整備される様になって鮎も帰って来た様です。
それでも上流にあるダムの生せいで水量も減り水温が下がってしまったから、江戸時代や昭和初期の景色には戻れないのが残念です。
せめて想像をたくましくしましょう。

帰りは日が傾いて来てちょっと寒く成って来ました。
でも暮れてゆく空の足元には富士山がシルエットで見えます。
沈む夕日と足を競う様に帰り道を歩きます。
やっぱり富士山って偉大な存在ですねえ!
あんなに小さく見えるだけで景色にアクセントを付けてくれる。
アルプスやヒマラヤの山と違って、周りに高い山が無く独立して聳えたってる姿が凛々しいのでしょうね。
 山岳信仰は世界中にあるけれど、日本人にとっては富士山は他の山と違って単なる信仰対象の山ではなく、宗教を越えて人間の生きる姿勢を示してくれてる様な存在なんですね、きっと。

2011年2月9日水曜日

夜の浅草

今日はキャストの吹き上がりを受け取りに御徒町迄出かけました。
その後、ポケット地図を片手に合羽橋迄歩いてみました。
調理器具や飲食店の什器等の専門店が並ぶ合羽橋、噂には聞いていたけどなかなか行く機会が無く今回が初めてだったのですが、着いた頃にはもう閉店の時間でシャッターを下ろしだしていました。と言う訳で次回もう一度来てみる事にしてついでに浅草まで歩く事にしました。
雷門前迄来ると仲見世商店街には煌々と灯りが点いていました。
まばゆい灯りに誘われる様に商店街を通り抜けると浅草寺がライトアップされているではありませんか。
そう言えば、本殿の屋根瓦がチタン製のモノに葺き替えられたと聞いてます。
確かに軽快なチタングレーになってますね。
ちょうど五重塔の上に月も出ていてとても奇麗でした。
照明灯の位置や光の色もよく考えられているのでしょうね、建物の色彩がきれいに見えるようです。

 今回たまたま遭遇したライトアップ、お正月の昼間にしか来ない所なので、夜の浅草寺がこんなにきれいなのを初めて知りました。
他にも昼間しか知らないところで、夜にはまったく違うしっとりした景色を見せてくれている所があるのでしょうね。

 考えてみると東京の名所って案外知らない所が多いなあ。

都内では車で出かけると駐車場を探すのが大変だったりで、今迄なかなか足が向かなかったせいでもあります。

これからちょっとずつ足を延ばしてみたいと思います。


2011年2月4日金曜日

新幹線!

先日、親戚の葬儀に参列するために、本当に久しぶりに新幹線に乗りました。
思い返せば90年代半ばに上越新幹線に乗った(上野始発でした!)のを最後に、長距離移動は車か飛行機だったのです。
東海道新幹線には社会人に成る前に乗ったきりですから、二十年以上乗ってなかった!
そんな訳で、ちょっとワクワクしながら新横浜からのぞみに乗車しました。
 乗車して荷物を棚に上げてると気がつかないくらいスムーズに発車。
見る見るうちに速度が上がってるのにちょっとビックリ。
昔は架線を支える支柱が見えたのに、速すぎて全く眼に止まりません。
昔の東海道新幹線ひかりよりかなり高速になってるのに、座ってる限り揺れもさほどでもありません。
車内の騒音も低いと思います。
昔、英仏海峡を渡るユーロスターTGVにも乗りましたが、軌道の構造が違うようだしあちらは直線が多いので揺れに関しては比較すると劣りますが、それでもバラスト敷きの軌道で曲がりくねったコースを走ってる事を考えると、この程度の揺れで納まってるのは大したモノだと思います。
保線関係者のたゆまぬ努力の賜物ですね、きっと。
そんな訳で、車内販売のサンドウィッチを食べてついウトウトしているともう名古屋。
雪で15分遅れましたが、アッと言う間に新大阪着です。
楽チンです〜!

普段関西に出かける時は車だと6~7時間かかるのだから、運転しないでこんなに早く着いてしまうのは本当に楽ですね。
これで料金が半額くらいだったらねえ〜!
夫婦二人で往復すると五万円近いというのはちょっと・・・!

それにしても250~270km/hであのスピード感、東北新幹線はやぶさはそれを上回ると言うのだから、どんな感じなんでしょうかねえ〜。
さらに500km/hとも言われるリニアモーターカーに至っては・・・。

追悼!

久しぶりの投稿です。


 先週末はビッグサイトに国際宝飾展を見学に行ったりしたのでその事を書くつもりで居たのですが、月曜朝に突然母から電話が・・・。
年老いた両親から早朝深夜に電話が在ると、悪い報せではとドキドキするものです。
今回は想定されるものでは無かったものの、親戚の不幸でした。
私の母方の祖母のお兄さん、母には伯父サンの奥様が亡くなられたという報せでした。


 以前も書いたかもしれませんが、母は女学生の頃甲子園で伯父サンと同居していたのです。
戦後別々に暮らす様になった伯父サンが再婚されたのが、今回亡くなられたフミコさんでした。
伯父サンとフミコさんのお子さんが、母には従兄弟(イトコ)にあたる私と10歳はなれたコージさん。
私が産まれた頃は大阪近郊に住んでいたのですが、伯父サン家族も少し離れた所にお住まいで、母がフミコさんお姉さんと呼んで慕っていた事もあって、時々家族でお邪魔したりしていました。
小学校の半ばで私達家族は東京に来てしまいましたが、その後も何かと家族ぐるみでのお付き合いが続いていたのです。
近年は体力も衰えた為施設に入られていたのですが、一月末日に永眠されました。
特にどこか病気を抱えていた訳でも無く、老衰で汐が引くように息をひきとられたと聴いて、私達家族も哀しいけれども穏やかに受け入れる事が出来ました。


ワタシにとって、子供の頃からフミコさんはいつも家に居てニコニコ優しい顔しか記憶になく、結婚して初めて妻を連れて伺った時も大変喜んでくれました。
その後しばらくして入院されてらっしゃるのをお見舞いに伺った時も、妻の名前をしっかり覚えていらして驚くやら感激するやら・・・といった思い出もあります。


当初は両親のみ伺うつもりだったのですが、偶然妻も二連休だった事もあり、両親だけでは心配なので私達も同行して葬儀に参列させていただく事にしました。


お通夜の会場でフミコさんに再会したのですが、私が産まれる前からのお付き合いの母はやはり号泣してしまいましたねえ。
晩年背中が丸まってしまい、横になっても仰向けに寝られなかったフミコさんが棺の中に真っすぐ横たわってらっしゃる姿を見て、
「もう不自由な肉体から解き放されたんだなあ〜!」
と感慨深かったです。


 祭壇の中央に飾られた微笑むフミコさんの写真、コージさん
『エエ写真やろ、アレ☝』
と言われて、なんだか見覚えが在るなあと思ったら、まだお元気な頃に伺った時に恥ずかしがるフミコさんをワタシが撮影した写真でした。ご家族にも気に入っていただけて、こんな時にお役に立てたのが嬉しかったです。


 翌日の告別式後に火葬され、骨上げにも立ち会ったのですが、魂が離れてしまった肉体が真っ白く浄化されたとでもいうのか、まだ余熱が残る炉床の上の遺骨を見ても不思議と哀しくはならなかったのが意外でした。モチロン身近に接してらしたご家族はまた違う感慨をもたれたでしょうが。
思い返せば祖母の葬儀の時もそんな記憶があったのですが、表情の残る遺体とあまりにも違う熱く白い遺骨が故人の記憶に結びつかないからでしょうか・・・。


 初七日の法要も済ませて帰京したのですが、四十九日の法要・納骨にはワタシだけでなく子供の頃可愛がってもらって今回参列出来なかった弟も参列出来ればなあ、と思っています。