2013年4月14日日曜日

個展を二つ

 昨日は絶好の行楽日和のなか、鎌倉、茅ヶ崎まで出かけました。
専門学校で教えていた時の生徒さんが二人、それぞれ作品を展示してらっしゃるというお知らせを戴いたのです。
お昼頃車で家を出て、まずは鎌倉材木座にある『材木座カフェ』へ。住宅街の中、病院の建物の一角にある小さなギャラリーカフェでした。
ここで作品を展示してらしたのは塩原香苗さん。

 彼女は夜だけ週五日というハードなクラスの生徒さんでした。
このクラスの生徒さん達は以前も話しましたがクラスの結束が強くて今でも年に一回グループ展を開催しています。
その中でも塩原さんは印象的な生徒さんでした。
ジュエリーの製作技術を教えるクラスなので、一応課題作品を技術的に評価採点しなくてはならないのですが、彼女の作品は技術的には未熟でも作者の熱意や彼女にしか表現出来ない独特の世界観が伝わって来る物でした。
これは技術云々では評価出来ない、と心底感心してしまったものです。
 以来彼女には会う度に『普通の会社員として業界に就職するのではなく、アーティストになって欲しい』と無責任なことを言い続けて来ました。
そのせいかどうか、彼女はこれまで驚く程精力的に様々なイベントに加わって作品を発表してきました。

 そんな彼女のアクセサリー作品は、ジュエリーの世界の人間である私から見ると、まずはイベントでの販売を念頭に置いているということも在るのだと思いますが、共感出来る物もそうでないモノもあります。
でも、その中にも言葉や外見で自分を表現する事が不得手な彼女の、繊細な感性の片鱗を感じるのです。
 いつか学生時代に私を驚かせてくれた課題作品の様に、インパクトのある作品を発表してくれるのではないかと期待している次第です。

さて次に伺ったのが茅ヶ崎にある『artseaショップ&ギャラリー』
冒頭の写真は、ここで開催されている鈴木日那さんの個展のDM。
鈴木さんは昼間のクラスでしたが、周囲の学生さんより年上で皆にヒナさんと慕われていました。
当時から落ち着いた雰囲気の方でしたが、和装に目覚められたそうでFacebook等でも素敵な着物美人姿を公開されています。
昨日も初日とあって素敵なお着物で在廊されてました。

 今回、是非作品を拝見したいと思ったのはDMでは作品の大きさ素材が解らなかったからですが、御本人に伺ってビックリ。
レタスサイズからキャベツサイズまで、様々な色彩とサイズで作品を展開されてました。
照明器具を仕込んだ作品も在って、壁にかけたり、部屋の隅やテーブルに飾ったりと、インテリア・オブジェと言う言葉がピッタリでした。
彩色方法や組み立てる構造等今後発展させたらどんどん発展して行きそうで楽しみです。

 ヒナさんには久しぶりにお目にかかってお話を伺ったのですが、最近和裁の勉強を始められたそうで、衰えない向学心、生活を楽しむ姿勢がそうさせるのか、学生時代より若々しさに溢れ、それが作品に現れている様でした。

ご興味がある方は、今週いっぱい開催しているそうなので是非ご覧下さい。
artsea SHOP&GLLERY    www.artsea.jp
253-0053 茅ヶ崎市東海岸北5-1-30  0467-57-2146
10:00~18:00  火・水曜日休み

生き生きとしたお二人に会っての帰り道は予想はしていたけど大渋滞。
横浜新道にたどり着くまでのろのろ運転で一時間半・・・。
眠気覚ましにipodで懐かしの歌謡曲を流し、車内で独りカラオケ状態だったのですが、村田英雄『王将』を唄っていて二番あたりで何故か突然涙があふれてきました。
http://youtu.be/vjBX3-gfgCQ

 私のipodには植木等のスーダラ節なんかも入っていて、眠いときには植木さんになり切って唄うと眠気も飛ぶんですが、シャッフルでかかった曲で村田さんになりきろうとしたせいでしょうか。
それとも、丁度沈む夕陽が西の地平線にかかって美しかったせいでしょうか。





2013年4月3日水曜日

帰って来たベンちゃん号

11月末に修理工場から帰宅途中、通りかかった交差点を直進中に突然右折レーンから飛び出て来た車に右側面をぶつけられた我が家のベンちゃん号
 以前も御見せしましたが、右フロントのタイヤハウスからリアのタイやハウスまで、ベッコリとへこんでしまいました。
上の写真は事故直後の写真。

 その後、相手の保険会社と私の保険会社との交渉に手間取り、なかなか修理に入れないという状況が続きました。
 なにしろ18年落ち、走行11Kmで市場価格が殆ど無い車なのに、修理金額はその数倍に及ぶのですから、加害者側の保険会社が保険金支払いに難色を示したと言うのが実情の様です。
保険会社にしてみたら、オーナーの車に対する愛着というのは金額に換算出来ないからと言う事なんでしょうが、ではなんのために保険かけるんだ、ということになってしまいますね。
どうにも納得しがたい話です。

 しかも今後の私の自動車保険の保険料率もあがってしまいました。
ぶつけられ損もいいとこです!

 さんざん待たされた挙げ句ようやく一月に入って修理を開始、一ヶ月程で修理自体は終わっていた物の、今度は相手の車の補償額が確定しないという、どうにも訳の判らない保険会社同士の理由で待たされ、ようやく3/19に右半分だけピカピカに綺麗になって帰って来ました。
ところが、ここでまた新たな問題が。

 ベンちゃん号はAT車なんですが、その変速機に違和感を感じたのです。
前進するには何の問題も無くスムーズなのですが、これまでも車庫入れ等の際リバース・ギアに入れてから車が動き出すまで、ワンテンポ遅れていたのが、なんだかそのタイムラグが大きくなっているのです。
 前回ATのオイル交換をした際には特に異常は無かったのですが、もうすぐ走行12kmということもあり、いつも見ていただいてるメカニックに電話して意見を伺うと、そろそろオーバーホールを考えた方が良いと言う判断。

 以前、母が同じ車種に乗って居て同様の症状が悪化し、出先でバックギアに入らなくなってしまって困った挙げ句にディーラーでの修理代が非常に高額で、車を売ってワンサイズ小さなタイプに乗り換えたという経緯を思い出したので、ここは早急に対策することにしてネットで検索して草加にあるS社にオーバーホールを依頼しました。

 検査の結果、やはりミッション内部で部品が損耗していたようです。どうやら修理工場等に長く預けると、車庫の中で車の移動を頻繁に繰り返す事が多く、寿命が近い車は急速にダメージが大きくなる事があるのだそうです。
すんでの所で変速機全体に影響が及ぶ所だったようです。

 そんなわけで、変速機のオーバーホールを依頼、ついでにエンジンマウント、ミッションマウントも前回の交換から時間も経った事も在り、そろそろ交換しようと思っていたので同時に交換してもらいました。

 そして本日、雨の中をトランスポーターに載せられて帰って来たベンちゃん号。
早速近所を少し走ってみると、まず感じるのはエンジンマウント交換でなんだか腰の位置が少し高くなった様な、姿勢が正しくなったような感覚。
路面の不整によるガタピシ感も大幅に減少しました。
加速に伴う変速ショックも当然の事ながら大幅に減少。
問題のリバース・ギアにもタイムラグなくスッと入ります。

 まあなにしろ、かなりの距離を走ってるので彼方此方くたびれて来ているのは事実で、そろそろ足回りのリフレッシュもしなくてはならないのですが、今回の様にマウントを交換しただけでかなり乗り心地が回復することが、ベンちゃん号のボディの頑丈さを物語っているようです。
『良い物をメンテナンスしながら永く使う』という、ドイツ人のモノ作りの精神が息づいているんだ、とも感じます。
でも、これって昔は日本でもそうだったと思うんだけどなあ。


 今年に入って母も脳動脈瘤の存在や視力の低下を自覚して、とうとう車の運転を諦める事になりました。
しかし通院や買い物に車が無いと不便な所に住んでいるので、私がなにかと運転手役を務めなくてはなりません。
ベンちゃん号にはまだまだ働いてもらわなければならないのです。
これからも修理費維持費がかかるので、今後いつまで乗り続けられるか判りませんが、これからも我が家の一員として付き合って行きたいと思います。

2013年3月17日日曜日

春が来た。

 数日前は春の嵐が砂塵を巻き上げていたのですが、昨日は風も無く暖かな穏やかな春の一日でした。
PCHDD交換の為にデータを複製する必要があったので、数時間はかかろうというその間に近所を散歩する事にしました。

 出かける前に庭を見ると、毎年春の訪れを告げてくれるいつのまにかヒヤシンスが一株増えていました。
今年に入って妻の病気や母の火傷の治療通院等でゆっくり庭を眺める精神的余裕が無かったのですが、今年も元気に咲いてくれました。おまけに一株増えてるって、なんだか良い事が起きそうで嬉しいですね。
外に出ると梅が紅白で満開、竹の若葉の輝く様なグリーンとあいまって春を感じさせてくれます。
近所のお寺の境内に大きなモクレン(?)が今まさに満開!
下から見上げるとこんな感じ。
 お寺の駐車場にはこんなピンクの枝垂れの花が。早咲きの桜の一種でしょうか。
 三駅分歩いて少しくたびれたので、お寺の門前にあるお蕎麦屋さんで休憩。
電車で一つ前の駅まで戻って駅前のドトールでゆっくり本を読みながらコーヒーにデニッシュ。
帰りがけに駅前のお肉屋さんでメンチカツを一個買って、その場でパクリ。
メンチカツって、洋食屋さんでデミグラスソースで食べるのももちろん美味しいけど、こうやって揚げたてを何も付けずに食べるのもオイシイね!
もちろんメンチカツ自体が良い素材、脂で調理されてないとダメなんでしょうけど。
このお店のメンチカツは一度食べてファンになってしまいました。
今回は揚げたて熱々でさらに美味しかったです。
また来ようっと!


2013年3月16日土曜日

MacBookProのHDを増設しました。

私が愛用しているMacBookProearly2009モデルの17inchなのですが、購入当初は十分だった内臓HDDの容量320GBが残り10GBに近づきました。
外付けのHDDにデータの移設をしたりしたのですが、最近始めた両親の写真アルバムの整理の都合上内臓HDの容量がどうしても欲しい。
そこでいろいろ検索して調べた結果、自分で容量の大きなHDDに交換する事になりました。
幸い私のモデルでは、公式のマニュアルにもHDDの交換手順が記載されているので問題は無さそうです。
それに、先輩方が体験談をいろいろブログ等で公開しておられるので大変参考になりました。
複数の体験リポートから今回はこちらを参考にさせていただきました。

まずは、現在内蔵されているHDの中身をバックアップの意味もかねて、新しいHDDに移さなくてはなりません。

購入したHDDはこちら。
Seagate社製2.5インチ750GB5400rpmHDD。
Amazon¥7680.
中国製ということで心配がよぎるけど、まあイザとなったらTimeMachineでデータはバックアップしてるし。
 こちらにデータを移す為にPCと接続する為のケースがこちら。
Logitec社製USB2.0ポータブルハードディスクケース
おなじくAmazonで¥783.
ケースの蓋についた二本のネジをゆるめて外すと中身はこれだけ。
なんのクッションも無く、ペナペナの弁当箱にコネクターが付いてるだけ。
安い訳だ。
このケースのコネクターにHDDを差し込んで蓋を閉じ、外したネジで止めます。
データの移設が終わったらまた外すので、そんなにシッカリ閉めなくてもいいですね。
 ケースのコネクターにUSBケーブル(ケースに付属)を差し込んでPCと接続します。
ケーブルが二股になっていて、HDDの駆動にはPC側から電気を貰う様になっているようです。
PCに接続するとMacの場合『認識出来ない』と表示が出るので『初期化』をクリック。
Mac側のディスク・ユーティリティーの画面が開きます。
新しいHDDに名前を付けて、
1パーティション』『Mac OS 拡張(ジャーナリング)』
を選択します。
念のため『オプション』をクリックして『GUIDパーティションテーブル』になっている事を確認。
なっていれば『OK』をクリックしパーティション画面に戻り『適用』をクリック。
この作業はすぐに終わるので、『復元』をクリックして内臓されている『Macintosh HD』を「ソース」の欄にドラッグ
新しく名前を付けたHDDを「復元先」の欄にドラッグ
これで実行させると内臓HDDから新規HDDにデータの以降がスタートします。
私の場合、約300GB5時間くらいかかったでしょうか。
その間散歩に行ってました。
そうそう、ノートブックでも必ずACアダプターで給電しておかないと、途中で止まってしまって困った事になりかねません。

散歩から帰宅してデータのコピーが完了したら、いよいよMacの裏蓋を外して、内臓のHDDを交換します。
新規HDDをデータの移行に使ったケースから出して準備します。

まずPCを終了させ、AC電源からも外します。
ヒンジ部分を向こう側になる様に裏返して裏蓋のネジを外すと(小さいし、位置によって長さが異なるので整理して保管しましょう)右手前にHDDがあります。
まず、↑の位置にあるネジを緩めて、固定用の黒いパーツを外します。ネジは外れないですがパーツは外れる様になります。
HDDに付いている半透明のフィルムを持ち上げるとHDDがマウントからはずれます。接続コネクターに繫がるケーブルは長くないのでそっと外して下さい。
外した内臓HDDには四ヶ所(下の写真の白矢印)ビスが付いています。これは普通の+ドライバーでは外せません。
T6サイズのトルクスドライバーという特殊なネジ回しが必要です。
トルクスドライバーは日曜大工店でも¥500くらいで安く買えます。
外したネジを新規のHDDの同じ位置に取り付けます。
どうやらこのネジで、本体側の緩衝マウントに固定されるようになっているみたいです。
コネクターをHDDに確実に差し込んだら、所定の位置に新規HDDを挿入し、最初に外した黒いパーツをネジ留めして完了。
 最後に裏蓋をしてねじを締め直して作業は終了です。

 古い内臓HDDは先のケースに入れて外付けのHDDとして使用出来るのですが、4年近く使ったHDDは寿命も近いだろうし、滅多に使わないファイルを入れておくくらいが良さそうですね。

さて電源を入れると最初時間がかかってハラハラしましたが、無事に画面が立ち上がりました。
 めでたし、めでたし!

 データの移設に時間はかかりましたが、HDDの交換作業自体はさして難しくなく正味30分くらいで完了します。
さて、これでPCでの作業がどれくらい快適になるかは、また後日報告したいと思います。


2013年2月10日日曜日

昔の大雪:昭和38年の豪雪他

 最近両親のアルバムを整理している話は先日も書きましたが、珍しい写真が出て来ました。
昭和38年の豪雪を記録した写真です。
場所は当時住んで居た石川県金沢市内。

有名な兼六園から東に数百mの金沢市扇町にあった、日本電信電話公社の社宅とその周辺。
現在は建物が変わりNTTの職員寮になっているようです。
上の写真で二階建ての社宅、玄関が二つ並んでますが奥が私の住んで居た家になります。
なにしろ、朝になって積雪で玄関の戸が開かなくて慌てたと母が話していました。
結局二階の窓から出て外から玄関前を除雪したそうです。
社宅の並ぶ中央の通路を皆で雪かき中の写真。
この通りの左手に平屋の社宅、右手に二階建ての社宅が並んでいました。
除雪した雪は周囲の空き地に。
すると周囲は雪がうずたかくなり、結果として下の写真の様な光景に。
社宅から出て街の中に出てもこういう感じ。
どこも一階の屋根まで雪が積もり、降ろした雪で道路は埋まってしまっています。
 かろうじて庇があるところは地面を歩ける状態。

当時幼稚園児だった私達子供は窓からツララをとってかじったり、カマクラ作ってもらったり、幼稚園までスキーで通園したりと楽しい思いでが残ってますが、雨戸は開けられないし洗濯物は外で干せないし、買い物は大仕事だし大人には大変だった様です。
今年も日本海側は雪が多くてニュースになってますが、ここまで酷くはないようですね。
やはり平均気温が昔に較べて高くなってるんでしょうね。

雪と言えばこの写真も印象的。
昭和20214日の朝だそうです。
写っているのは当時13歳間近の母。
兵庫県西宮市甲子園球場ちかくの家の前での撮影。

戦争中なので防空頭巾にモンペです。
雪景色にこの薄着にこの履物(何履いてるのか判りませんが)って、今なら考えられないですよね。
当時は食料事情も悪かったろうし、寒さが堪えたのではないでしょうか。

 終戦間際の空襲でこの一帯は、B29による焼夷弾攻撃で辺り一面火の海になったそうです。
たくさんあったレコードや写真アルバムも皆焼けてしまったそうで、当時の貴重な一枚ということになります。







医師の一言。

 昨年末から我が家、家族共に病院通いが続きました。

 昨年末には妻が中耳炎をこじらせて、左耳が聞こえなくなってしまいました。
職場の近所の耳鼻科で診てもらった所大きな病院を薦められたので、母の知り合いで、子供の頃から家族ぐるみのお付き合いのお医者様に耳鼻科を紹介していただき、鼓膜の奥に貯まった膿を排出し鼓膜に細いパイプを挿入するという手術を緊急にしていただきました。
おかげで徐々に聴力も回復、来月当たりパイプも外せそうです。

 今年になってからは、昨年から懸案だった母の脳動脈瘤の検査。

 以前腰の脊髄管狭窄の手術でお世話になった脳神経外科の先生に脳のCT検査を薦められ、撮影した所動脈瘤を発見。
しかもかなり大きい。
しばらく様子を見ていたのですが、MRIで撮影したところ実は反対側にもあり、そちらの方が大きい事が判明。
 高齢なので開頭手術はリスクが高いので、血管内カテーテル手術が出来ないかを二泊三日で入院して検査する事になりました。

 検査の結果、大きい方は動脈瘤から細い血管が出ていて、それまで塞ぐとどこかに麻痺が出る可能性があるので無理、小さい方も血管の分岐部分故形状的にカテーテル手術では無理。
残りは開頭手術です。
 担当医師と協議の結果、放置して動脈瘤が破裂してクモ膜下出血を起こす確率に対して手術に伴う弊害が小さくないと言う事で、手術はせずに血圧を上がりにくくする薬を服用しながら、定期的に観察する事になりました。
 母も納得して、手術せずに済んだ事を喜んでいたのですが、その検査入院の際に年末に出来た火傷がかなり重傷だったことが判明。

 私が椿山荘のイベントに出展したのを観に来た際、輸入品の銅製の湯たんぽを購入し愛用していたのですが、熱湯を入れて寝る際に誘眠剤を服用したため左足の内側、くるぶしの少し上に低温火傷を負ったのです。
朝目覚めて水ぶくれを破いてしまったのですが、馬油を塗っただけで放置しお風呂にも入ってしまったようです。
そこで傷口から雑菌が入ってしまった様で、検査入院した病院で診てもらった外科医に有無を言わさず壊死した患部を切除されてしまいました。

検査入院が終わって退院するにあたって、近所のかかりつけの皮膚科医に診てもらう事にしたのですが、結局植皮手術になると長期入院になり脚力も衰える為、頻繁に通って患部を殺菌消毒、患部を無菌ガーゼでカバーして傷の自然治癒を待つ事になりました。
と言う訳で火曜金曜に皮膚科に通っているのですが、最近は少しずつ切除されてボコッと凹んでいた患部に赤い肉が盛り上がって来ました。
少しずつ回復して来ている患部を見ると、人間の回復力って凄いし不思議だなあと思います。

 さて、とどめは妻の乳がん疑惑。
正月開けに『胸にしこりがあるみたい』と言い出し、子宮がん検診にも行った事のある近所の大きな病院に行ったのですが、触診で多分大丈夫と言っていたものの、念のためにエコー検査。
それが医師自身のインフルエンザで一週間も延び、その結果を見て念のためにMRI
それを見て急に、疑わしいから組織検査をすると言い出したのです。
おまけにガンでも良性でも手術で切除が必要と言われ、すっかり脅えて落ち込んでしまった妻。

結局発見から診断まで、ほぼ一ヶ月もかかってしまいました。
まだ若いのでガンなら転移も疑われるし、どちらにしても切除が必要な大きさなら最初に組織検査すれば良さそうなものです。
そんなこんなで、この医師への信頼を無くしてしまいました。
見かねて別の医師を紹介してもらうことにしました。

 紹介していただいたのは私の祖母が昔胃がんを発見してもらい、手術もしてもらったガンのエキスパート。
もう高齢故、当時在職されていた大病院は退職され、小さな診療所で診察に専念されているそうです。
初日の触診で『だいたい判りました』と言って下さったのですが、既に組織検査もしていたのでその結果を診ていただく事にしました。

 最初の病院での組織検査で、結局良性の判断を貰ったのですが、その足でその検査結果をもって診てもらいました。
エコー画像も診て、これならほぼ間違いなくガンではないことや『私は触診で八割判ります』と聴いて妻も私もようやく一安心。

 つまり最初からこの老医師に診ていただいてたら、触診後の医師自らのエコー検査の一日で済んで、マンモグラフィーもMRIも痛みを伴う組織検査も必要なかった訳です。
 おまけに先の医師とは違い、良性腫瘍なら今すぐ手術の必要は無いし、ホルモン剤等の投与も効き目が無い上に副作用が大きいからしない、との診断。
二三ヶ月毎に悪性に変化していないか等、再診していただくことになりました。
先に母の動脈瘤を診て、手術しない判断を提示して下さった脳神経外科医もカテーテル手術の専門医も『何でも切りたがる先生も居ますが〜』と言っていたけれど、まさにおっしゃる通り。

 老医師曰く、大きな病院は患者数も多く診断も手術も雑になりがち、と言う話も聴きました。
そう言えば最初の病院は老医師の丁寧な触診とは違い、女医の触診も簡単なものだったと妻も言ってました。
夫婦揃って来て下さいと言われて組織検査の診断結果を聴きに行った時も、患者に対面しないでパソコン端末の画像を見ながら話してるし・・・。
『ご主人にもご心配をおかけしましたが、大丈夫ですよ。』位言って欲しいものです。
触診で自信が無いから、CTやマンモグラフィー、超音波エコーやMRIに頼るのでしょうかね。
結局それが患者の不安や負担になるのですが。

 それにしても、普段頭で判ってはいるけれど『家族の健康が大事』ということを身にしみて実感しました。
同時に、妻が不安を抱えていても何もしてあげられない無力感も。
こんな時は医師の患者側に立った丁寧な対応と説明、そして『大丈夫』の一言に勝るものは無いですね。

『やはり、最初に診ていただく医師が大事だねえ』と夫婦で話しながら帰宅したのですが、ホッと一安心した妻は食欲が急にわいて来て、帰り道のファミレスでいつもの様にモリモリ食べてました。


2013年1月28日月曜日

祖母のアルバムから

 先日実家に帰った時、祖母のアルバムの写真を整理したいと母に頼まれました。
アルバムにしておくとかさばるし、アルバムの台紙自体が劣化して来てボロボロなので、写真だけはがして画像をスキャナーでデジタル化しておけば嵩張らないし、何時でも見られるということで写真を預かって来ました。

 早速スキャナーでとりこんだのですが、なにしろ古い白黒写真なうえに、撮影時の情報が全く判らないものがいくつかあって、整理は意外と大変そうです。
なにしろ祖母を始め写っている人間の大半が死去していて、被写体の名前や撮影場所や日時等、頼りになるのは母の記憶だけですから。

それにしても感心したのが、古い白黒銀塩写真の耐久性。
かつては写真自体が特別な時に撮られる高価なものだったせいか、プリント時の化学処理が適切で、現像処理後にきちんと時間をかけて水洗されてたんでしょうね。
加えて大事に保管されてめったに見なかった事も在るのでしょうが、明治、大正、昭和初期〜30年代の写真は、変色もなく綺麗なプリントが多かった。
逆に70年代以降のカラープリントのほうが褪色してしまってます。
機械で大量に現像と同時にプリントするシステムが普及して、カラー写真が急速に普及しだした頃ですね。
安さ早さを競っていた弊害が、こんなところで出て来る訳です。

さて、いまから百年近く前に撮られた写真。
右端が私の母方の祖母10歳。中央がその兄で長男12歳。左が妹で6歳。
今時の子供と較べると小さく幼く見えるけど、三人共眼に力がありますねえ。
祖母はやっぱり気が強そうな顔してます。
 この老紳士が母の祖父になります。
なかなかハイカラな紳士だった様です。
 上の写真で幼かった祖母も、19歳にもなれば番茶も出花。
なかなかの美人に撮れてると思いますが如何でしょうか。

こんな初々しい写真を見たうえで、まだ記憶に新しい晩年の祖母を思うと、やはり戦後の苦労が人相を変えてしまったんだろうなあ、と思うのです。

戦争ってイヤですね〜。

2013年1月22日火曜日

懐かしい風景

たまたま立ち寄った書店で見つけた写真集。
『昭和の京都』写真・浅野喜一

昭和30~40年頃の京都の市街を撮影した写真集です。

大阪で生まれ育ち、終戦間近に空襲で焼け出されて岡山県津山市の実家に戻っていた母が、生活の為に祖母と京都に出て来て父と出会い結婚したのが京都でした。
小学生低学年を西宮市で過ごした私にとって、両親に連れられて観光に行った記憶の中の京都が甦ります。
丁度私が産まれた頃の街の様子が写されているのですが、今となっては別の国を見ている様です。
ちょうど高度経済成長期にかさなる期間、繁栄と引き換えに失って行ったものが多い事にも気づかされます。
路面電車等、もう一度京都の街を走らせる訳に行かないんでしょうかねえ。