2011年1月5日水曜日

祖母の事

最近話題になってる『トイレの神様』という歌。
聴いてると亡くなった祖母の事を思い出します。


 祖母はもうかなり前に亡くなりました。
岡山県津山のさらに山奥、美作加茂というのが祖母の生家のあった土地。
曾祖父は当時その地域一帯に山林、田畑を所有し、小作人を多く抱える大地主だったようです。
更に、大阪で事業をしていた関係で母が産まれた頃は大阪のど真ん中あたりに家があったそうで、母も今は取り壊しになってしまった有名な小学校に通っていたそうです。
まあ、当時でいうブルジョワ階級だったわけですね。
 しかし戦後、財閥解体や農地解放などで、不在地主だった為にすっかり土地山林を失い、殆ど無一文になってしまった様です。ですから、戦後はまさにタケノコ生活


 戦争中、女学校に通う為に甲子園で伯父と暮らしていた母は終戦直前の阪神大空襲で焼けだされ、当時美作加茂に帰っていた祖母と津山市内で暮らし始めるのですが、編入した津山の女学校も経済的な事情から通えなく成り、祖母と二人京都に出て働く様になるのです。
 京都西陣で借間暮らしを始めた当時祖母は洋裁和裁などの内職をしていたそうで、当時の母は祖母が寝ているのを見た事が無いと話していました。
 その後母は仕事先で父と出会い、結婚してワタシが産まれるのですが、小さい頃ワタシが覚えている祖母はあちこちの病院で『付き添いさん』をしていました。
今はそういうシステムは無くなったのですが、長期入院されている患者さんの家族に代わって病室に泊まり込んでお世話をする仕事です。


 ワタシが専門学校に通う様になったころから、祖母は仕事を辞めて私達と同居するようになりました。
そんななか、父が名古屋に単身赴任することになり一週間おきに母が名古屋に行く事になったのですが、留守を預かる事になった祖母がワタシの世話をしてくれたのです。
といっても、こちらも社会人でしたからあれこれ世話を焼かれるのも鬱陶しく、たたんでくれた洗濯物をなかなか二階の自室に持って上がらなかったりした時に、痛い足をかばいながらようやく二階に運んでくれたりしたのに、『無理したら危ないだろ!』なんて怒ったりしてしまいました。
多分ずっと働き詰めに来た祖母にとって娘の家とは言え、働かずに父と同居するのが心苦しく思っていたのでしょう、なにか役に立ちたいと思っていたのだと思います。
亡くなる数年前から足も不自由になり、母も腰を痛めたため幸い近所の施設が空いた事も在って、そちらに入所。
当時ワタシも一人暮らしを始めた事も在って、なかなか会えなくなりました。
結局その施設で老衰で亡くなった祖母。


一人暮らしを始めてすぐに祖母が亡くなり、その後洗濯物を畳む度に祖母の事をよく思い出しました。
裏返った靴下を直しながら、リウマチで関節が膨らんだ祖母にはきっと大変だったろうなあ、なんて・・・・。
今なら、もう少し優しい言葉をかけてあげられるんじゃないかと思うんですが・・・・。


 でも、そう思いながらも現実には当時の祖母の年齢に近づいた母に、そんなに優しく出来ない自分がもどかしいです。

だから『トイレの神様』を聴いてると、身につまされて・・・。



0 件のコメント: